2005.09.05 Monday ブログをお引っ越ししました。
こちらにお越し下さい。
NHK「生き抜く 小野田寛郎」を見て思う
日本の降伏調印から60年となる9月3日、真珠湾に浮かぶ退役戦艦ミズーリ号艦上で記念式典が行われました。
ちょうどこの日、NHKで放映された「生き抜く 小野田寛郎」という番組を見る機会に恵まれました。
NHK 夏の特集番組
大正11年生まれの小野田さんは、昭和14年中学校卒業後に、商社員として中国・武漢に赴任
昭和17年陸軍に入営し、昭和19年に比島派遣軍指令部参謀部付としてルバング島に派遣され、敵の占領地内に残留して味方の反撃に備え各種の情報を収集する「残置諜者」の任務を与えられます。
終戦後、ルバング島に残っていた小野田少尉をはじめとする一行4名には、任務終了の命令が届きませんでした。
結局、地元の軍隊と武力衝突などで仲間を失い、一人になりながらも30年間「任務解除の」受けられないまま任務を続けたことになります。
小生には30年間もジャングルを彷徨することなど想像も出来ません。
小野田さんは、ルバング島での30年を
「終わったことは仕方ない、ルバング島で強くなった」
「兵隊に取られることは分かっていたから青春は先取りして楽しんでおいた」
「僕を気の毒がるが、気の毒なのは死んだ人だ」
「本能的に死にたくないと思うから、努力する」等と淡々と語られました。
帰国後、小野田さんは「軍人精神の権化」「軍国主義の亡霊」といったあらぬ批判を受け疑心暗鬼になり、大きく変わった日本社会に馴染めず、帰国の半年後にはブラジルに移住して牧場経営をすることになりますが、この時のことを小野田さんは、
「戦前は、人は何と言って兵隊を送り出したのか、新聞は何と書いていたのか」と静かに語られました。
小野田さんはブラジル移住から10年を経て牧場経営を成功させましたが、その頃、川崎市の「金属バット事件」をブラジルの邦字紙で知ることになります。
「子供は何故家を出なかったのだろう。家を出ていけば悲劇は防げた。私はその年にはもう働いていた。子供がしっかりしていない」と事件を分析されます。
この事件をきっかけに、自然体験を通じて、子供たちが目的意識に目覚め、生きる力を身につけると考えた小野田さんは、する『小野田自然塾』を立ち上げ、ジャングルでのサバイバル経験を生かし、青少年達とアウトドア生活を共にする活動を推進されています。
「目的があれば、細かいことに悩んでいられない、悩んで立ち止まっていられない、目的を持つことが大切」という旨の話を何度かされました。
このような社会教育活動について小野田さんは、
「死んでから踏みつけられるのは嫌だから」
「祖先からの国を、地球が無くなるまで継続させたいから」と語られましたが、印象的な言葉として心に響きました。
83歳の小野田さんが、講演の原稿をパソコンで作成する姿にも驚きました。
小野田さんの高い資質というか生きる力を垣間見た思いが致します。
こうして、自然塾、講演会活動を行う日本と、牧場があるブラジルを往復し続けておられます。
ブラジルの広大な牧場を駆け巡る83歳の小野田さんは、
「ルバング島全島を巡り歩いたことを思えば、狭い牧場などたいしたことはない」と言います。
神様が「ルバング島で失った30年」に、ご褒美を与えられたかのよう、小野田さんの細い身体からは、逞しい不屈のエネルギーが滲み出ていました。
戦争に翻弄されながらも、自分自身の生きる目的を常に追究し、自分の意志を貫いてきた小野田さんにとって、ルバング島での30年は決して無為なものにはならなかったのです。
ルバング島での30年を、振り返ることに注力せず、前に向かって進むエネルギーに変えることができる小野田さんに感銘しました。
牧場を成功させた上、ブラジル国空軍より民間最高勲章「メリット・サントス・ドモント」を授与され、ブラジル国マットグロッソ州より名誉州民に選ばれるなどの栄華を誇らず、淡々と人生を語る小野田さん。
小生のような若輩者が語ることは何もありません。
ただ、屈託なく過去を語る小野田さんの言葉から、戦争の無情さを感じずにはいられませんでした。
カーメイト チャイルドシート エールベベ・サラットハイバックジュニア スポーティーレッド
ちょうどこの日、NHKで放映された「生き抜く 小野田寛郎」という番組を見る機会に恵まれました。
NHK 夏の特集番組
「生き抜く」〜小野田寛郎〜 太平洋戦争終結から29年後、フィリピン・ルバング島から帰還した「最後の日本兵」小野田寛郎。しかし帰国した小野田を迎えたのは、あまりに変わりすぎた日本社会と日本人。不信感と絶望感を募らせ、牧場を経営しようとブラジルへ渡る。「一個人として生きる力を日本人に見せるために」原野や異文化を相手に格闘の日々を送り、現在は1800頭の牛を育てブラジル名誉州民権も得ている。今、小野田は残された時間を日本の子どもたちのために捧げようとしている。「どんな時代、どんな状況でも生きていける強さをもってほしい」生きることの大切さと人間としての責任感を教えることを人生最後の仕事と小野田決めたのだ。フィリピン、日本、ブラジル……それぞれの時代とどうむきあい、どう生き抜いてきたのか、小野田寛郎のインタビューを軸に振り返る小野田寛郎少尉は、昭和49年、小生が中学生の時に比国ルバング島から日本に帰還され、先にグアムから帰還された横井さんと共に印象深く記憶に残っております。
大正11年生まれの小野田さんは、昭和14年中学校卒業後に、商社員として中国・武漢に赴任
昭和17年陸軍に入営し、昭和19年に比島派遣軍指令部参謀部付としてルバング島に派遣され、敵の占領地内に残留して味方の反撃に備え各種の情報を収集する「残置諜者」の任務を与えられます。
終戦後、ルバング島に残っていた小野田少尉をはじめとする一行4名には、任務終了の命令が届きませんでした。
結局、地元の軍隊と武力衝突などで仲間を失い、一人になりながらも30年間「任務解除の」受けられないまま任務を続けたことになります。
小生には30年間もジャングルを彷徨することなど想像も出来ません。
小野田さんは、ルバング島での30年を
「終わったことは仕方ない、ルバング島で強くなった」
「兵隊に取られることは分かっていたから青春は先取りして楽しんでおいた」
「僕を気の毒がるが、気の毒なのは死んだ人だ」
「本能的に死にたくないと思うから、努力する」等と淡々と語られました。
帰国後、小野田さんは「軍人精神の権化」「軍国主義の亡霊」といったあらぬ批判を受け疑心暗鬼になり、大きく変わった日本社会に馴染めず、帰国の半年後にはブラジルに移住して牧場経営をすることになりますが、この時のことを小野田さんは、
「戦前は、人は何と言って兵隊を送り出したのか、新聞は何と書いていたのか」と静かに語られました。
小野田さんはブラジル移住から10年を経て牧場経営を成功させましたが、その頃、川崎市の「金属バット事件」をブラジルの邦字紙で知ることになります。
「子供は何故家を出なかったのだろう。家を出ていけば悲劇は防げた。私はその年にはもう働いていた。子供がしっかりしていない」と事件を分析されます。
この事件をきっかけに、自然体験を通じて、子供たちが目的意識に目覚め、生きる力を身につけると考えた小野田さんは、する『小野田自然塾』を立ち上げ、ジャングルでのサバイバル経験を生かし、青少年達とアウトドア生活を共にする活動を推進されています。
「目的があれば、細かいことに悩んでいられない、悩んで立ち止まっていられない、目的を持つことが大切」という旨の話を何度かされました。
このような社会教育活動について小野田さんは、
「死んでから踏みつけられるのは嫌だから」
「祖先からの国を、地球が無くなるまで継続させたいから」と語られましたが、印象的な言葉として心に響きました。
83歳の小野田さんが、講演の原稿をパソコンで作成する姿にも驚きました。
小野田さんの高い資質というか生きる力を垣間見た思いが致します。
こうして、自然塾、講演会活動を行う日本と、牧場があるブラジルを往復し続けておられます。
ブラジルの広大な牧場を駆け巡る83歳の小野田さんは、
「ルバング島全島を巡り歩いたことを思えば、狭い牧場などたいしたことはない」と言います。
神様が「ルバング島で失った30年」に、ご褒美を与えられたかのよう、小野田さんの細い身体からは、逞しい不屈のエネルギーが滲み出ていました。
戦争に翻弄されながらも、自分自身の生きる目的を常に追究し、自分の意志を貫いてきた小野田さんにとって、ルバング島での30年は決して無為なものにはならなかったのです。
ルバング島での30年を、振り返ることに注力せず、前に向かって進むエネルギーに変えることができる小野田さんに感銘しました。
牧場を成功させた上、ブラジル国空軍より民間最高勲章「メリット・サントス・ドモント」を授与され、ブラジル国マットグロッソ州より名誉州民に選ばれるなどの栄華を誇らず、淡々と人生を語る小野田さん。
小生のような若輩者が語ることは何もありません。
ただ、屈託なく過去を語る小野田さんの言葉から、戦争の無情さを感じずにはいられませんでした。
カーメイト チャイルドシート エールベベ・サラットハイバックジュニア スポーティーレッド